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国鉄?JRにおける論争史

どうして民営化になったのでしょうか。。
その秘密を探ってみました。。

軍部と井上勝
1887年ごろ、鉄道の輸送量が増加するに及んで、陸軍などから標準軌への改軌を要求する「鉄道改正権議案」が提出される。これに対して鉄道局長で鉄道国有論者の井上勝は、東海道本線さえ開業していない現状では路線拡大のほうを優先すべきとし、これを跳ね除けた。


日清戦争後
1894年の日清戦争により、鉄道の輸送量はさらに増加した。1896年には逓信省で軌制取調委員会が発足し、改軌に要する費用とその利点・欠点などの調査が行われた。しかし、鉄道局内に改軌論者がほとんどいなかったことと、軍部が鉄道国有化へ方針を改めたことにより実施には至らず、1899年に軌制取調委員会は解散した。


後藤新平と原敬
日露戦争後、日本は朝鮮を領土に含め(韓国併合)、満州に南満州鉄道の権益を有するようになった。それまで朝鮮の主たる鉄道路線は標準軌であり、満州の鉄道は元々ロシア帝国が敷設した1524mmの広軌であったが、後者については戦争中に日本軍が日本製車両による軍事輸送のため狭軌に改軌していた。満鉄成立後、朝鮮・中国との一体輸送を行う必要から(大連?長春)は標準軌に改軌した。

1906年に成立した南満州鉄道の初代総裁には後藤新平が就任したが、続いて鉄道国有法によって一本化された国有鉄道を経営するため、1908年に設立された鉄道院の初代総裁に就任した。後藤は、満州同様に日本本土の鉄道も標準軌に改軌する提案を打ち出し、1910年の鉄道会議で東海道本線・山陽本線などの主要14路線を1911年度からの13ヵ年で標準軌(当時はこれを「広軌」と呼んだ)に改築する案が可決された。これにより、東京の市街線や東海道・山陽本線で新たに建造される建造物は、標準軌規格で設計する通達も出された。この頃建設されていた磐越西線では、実際に平瀬トンネルが一部標準軌の規格で建設されている。

しかしこれに対し、原敬率いる立憲政友会が横槍を入れた。政友会の基本方針は、低規格でもいいから全国に路線を張り巡らせようとする「建主改従」となっており、後藤の提案した「改主建従」と真っ向から対立していたわけだが、帝国議会で両者がぶつかり合った結果、改軌に対する予算は出さないことになってしまった。

1911年4月にはより低予算での改軌と、改軌線区の拡大を目指すため「広軌鉄道改築準備委員会」が政府内に発足し、審議が行われる。しかし同年8月、原敬が内閣鉄道院総裁(内務大臣兼務)に就任したため、広軌計画は中止になった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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2008年02月29日 17:33に投稿されたエントリーのページです。

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